イグレン 加藤 文男
工場環境への規制や制限、労働者の意識の変化、労働賃金の大幅な上昇に対して、日本の製造業は、労働賃金が安く、労働力を確保しやすい東南アジアへ製造委託の形で海外での生産に移し始めた。製造委託の形ではあったが、現地政府からの現地の製造業の育成指導や能力向上の考えから、技術移転という言葉が使用された。
1 韓国から台湾そして、シンガポールへ
技術移転は、1970年代にまず韓国で始まった。朝鮮戦争にて大きなダメージを受けたが日本や米国の技術を取り入れて、工業力の向上を図った。その当時の対象製品は、自動車、家電などの工業製品が中心であり、技術習得は、ドキュメント化された技術の開示が主体であった。米国式の技術援助協定が主流であり、韓国への技術移転は、米国より資本を取り入れて、技術を日本のメーカーへ導入する方法が見直され、韓国によって企業経営の主導権が確保され、技術移転も韓国側の意志で実現してきた。
韓国より、少し遅れて台湾、香港、シンガポールなど東南アジアの国々が主に日本のメーカーと契約して家電製品や機械の部品を組立て、完成品を作る方法により、技術導入を図った。導入した技術は、組み立て技術の習得が中心であり、この技術移転は企業内技術移転の一種であり、日本がその中心的役割を果たした。
1980年代になり、技術移転の主体はタイやマレーシアに移行した。タイへの技術移転は、現地政府によって国産化のガイドラインが示され、これに個々の企業が対応して行く方法で、日本側の企業のイニシアチブによって行われた。
日本側より出す技術は、当時生産上必要な技術の範囲が標準化されておらず、契約締結後、その解釈をめぐり両者に問題が発生することが多かった。理由は、原材料(部品)のノウハウは部品メーカーの所有で図面上に表現されていなかったからである。供与側は技術の範囲を狭くしたいし、受領側は広く要求したが、日本からの技術移転は人によって口頭でなされる部分が多かった。
生産技術や品質管理、QCサークル活動で改善されたノウハウが付加された“技術”はドキュメント化されにくい。従って、ノウハウの技術移転は、どうしても人に頼らざるを得ないケースが多く、多くの企業は、現地から人を呼んで指導をするか、現地へ指導者を派遣して行われることが多かった。
1990年代になって、日系電子機器メーカーは、標準化した製品を現地に設計開発部門を設置しての技術移転を実施した。シンガポールや台湾の生産拠点から派遣される技術研修生の数が増加し、日本から東南アジアへの技術移転の多くが人によって行なわれた。東南アジアのその後の驚異的な高度経済成長は、この技術移転によるものであった。
2 キットの送付からSKD、CKDへ
技術移転による製造委託は、品質を確保するためにほとんどの原材料(部品)をキットの形にして、現地工場へ送付し、組立製造することから始まった。東南アジアにおける組み立て生産とはいうものの形だけのノックダウンであった。日本製品に対する輸入制限や輸入禁止に対して形だけの東南アジア製として欧米へ輸出した。一部ではこれを迂回生産とかIKD(インチキノックダウン)と揶揄されたこともあった。
その内、板金部品やプレス部品、印刷物などの機構部品は現地の工場で製造可能であることから現地企業からの要望により、切り替えを検討した。しかし、現地企業の品質レベルは、完成度や出来栄えの点で満足のいくものではなかった。日本企業の外観検査はそれだけ厳しかった。検査基準や限度見本を作成し、その加工精度を上げ、できばえ品質を向上する指導から始まり、可能なものから現地製造品へ切り替えていった。原材料(部品)の一部を東南アジア製に切り替えたセミノックダウン(SKD)による現地生産の始まりである。
更に現地政府から技術力や製造力を高める要請があり板金プレス部品などの機構部品から、技術力、製造力の向上とともにトランス、スイッチ、スピーカなどの電気部品、更にACアダプターや電源部などのユニットやモジュールへと拡大し、セミノックダウンによる現地調達品の割合(現地調達率)を上げていった。品質や性能の点で日本でしか供給できない重要機能部品を日本から送付し、組み立てるステップを経て、すべての部品の現地調達にする完全ノックダウン(CKD)へと発展した。
この間に機構部品や一部の電気部品の品質性能や信頼性が非常に向上し、国内で販売する製品にも使用できるようになった。これが海外調達の始まりとなった。