イグレン 加藤 文男
長期にわたる円高の上にさらに新しく大きな問題が持ちあがった。戦後40年日本の経済は目覚しい発展を遂げ、1988年当時、日本の貿易黒字は非常に大きくなり、特に日本からアメリカへの輸出超過が非常に大きくなっていた。
当時の日本経済研究センターの調査によれば、1988年の日本の貿易黒字は、対米州467億ドル、欧州アフリカは、267億ドル、アジア中近東は41億ドル合計775億ドルの輸出超過となった。この結果日本の最大の貿易相手国のアメリカにおいて貿易赤字の50%を日本からの輸出が占め、極めて異常な事態になった。日本の輸出不均衡の85%が自動車産業と電気機器産業で占めるほどになっていたのである。
1989年2月のワシントンポスト紙とABC放送が共同で行った世論調査において、「アメリカ人の半数に近い44%の人が日本の経済力の方がソ連の軍事力よりも米国の安全保障にとって脅威である」というショッキングな報告がなされた。この時、日本の自動車産業と電機機械産業は、米国への輸出の点で悪者扱いであった。
当時の米国と日本のGDPをドルで表示しグラフ化してみたのが下の図である。
(当時の経済産業省の資料でグラフを作成し筆者が赤点線を追加作成)
1985年から1989年までの日本のGDPの伸びをそのまま伸びると仮定して延長すると1995年ごろには米国のGDPを追い越してしまう恐れが出てくることがわかる。常に世界一でなければならないアメリカ人にとってこれは許しがたいことであった。
残念なことに1990年初め日本のバブルがはじけて日本は低成長期から大不況に入り、日本のGDPは伸びるのが止まり米国のGDPを追い越すことなく現在に至っている。
アメリカ政府は、米国内の世論や業界の圧力押されて包括通商法301条、いわゆるスーパー301による報復をちらつかせ、日本に市場開放と輸入拡大を強硬に迫ったのである。当時の通商産業省は、これを受けて自動車産業や電機機械産業のトップを集めて、とにかく輸出を極力抑えてできるだけ米国からの輸入に力を入れるように強く迫った。1989年のことであった。日本の貿易は「輸出中心の国際化」から「バランスの取れた国際協調」へと方針を切り替えた年となった。
この米国の輸入拡大圧力を契機として、日本の製造業は、台湾やシンガポールに調達可能な原材料、部品に関する情報収集のために国際調達IPO(International Purchasing Operation)拠点を競って設置した。このようにしてそれまで日本国内で原材料を調達し、製造組立てして輸出をしていた製造業は、「原材料を輸入して完成品を輸出すること」から「輸出品に使用されている原材料の国際調達」をせざるを得なくなった。
それまで製造委託とか技術移転という言葉で表現していたがこの時から国際調達が多く使用されるようになり、海外調達、そして海外生産へと大きく変わったのである。
このように経済原則だけでなく、政治の動向でも日常の仕事が大きく変わることがあり、注意をしなければならない。この種のことは今でも起こり得る貴重な経験である。