イグレン 加藤 文男
1 外国為替の大きな変動
海外調達、海外生産への最も大きい要因は、外国為替の変動・円高であった。1971年のニクソンショックと1985年のプラザ合意後の急激な円高は、特に大きな影響を与えた。
1971年8月米大統領ニクソンがドル紙幣と金との兌換停止を発表した。これ以降ブレトン・ウッズ体制の終結により、日本の為替は固定相場制から変動相場制に移行した。これによりそれまで1ドル¥360が12月には一気に¥308まで上昇した。これがニクソンショックである。
1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催された先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議 G5で討議されたドル高是正のための一連の合意で更に円高が進んだ。ニクソンショック以後第1次石油ショック、第2次石油ショックを経て、¥240まで円高になっていた為替は、更に¥140まで円高が進んだ。
この傾向は、1970年以降の為替の変動は下記のとおりである。
(出典:国民経済計算年報よりグラフ化し、筆者追記)
2 円高の影響
1970年までの1ドル¥360が1971年に¥308の円高になった後、1977年に¥285になり、1985年のプラザ合意で更に¥140まで円高が進んだ。
1972年から1977年の平均レート¥285に比較して1985年には、20%の円高、更に1992年には50%の円高の¥140となった。1990年代半ばには、一時¥100を超える円高を見せたが2002年まで平均¥113、2008年までの平均¥112と小康状態を見せた。
ここで為替変動の影響を検討してみる。
例えば、1977年当時アメリカにおける販売価格$100、日本の輸出価格¥28,500の価格で契約し、それ以降価格交渉を全くしなかったと仮定した場合、為替変動による日本の製造業が入手できる日本円換算価格、または、アメリカにおける販売価格USドルは単純計算で下記の表になる。
1978年~1985年は、$100の日本円換算価格は、¥28,500から約20%下落した¥22,700になった。同様に1986年~1992年は、約半額の¥14,000、更に1993年~2002年には、約60%下がった¥11,130になってしまった計算となる。
逆に輸出価格¥28,500を変更しなかった場合、アメリカにおける販売価格は、$100ではなく、2.5倍の$252では販売しなければならなくなり、到底容認できる価格ではない。これだけを見ても為替の影響、円高が輸出に与えた影響の大きさがわかる。
実際には、この価格で輸出することはできず、同様にアメリカにおいて販売価格をそのまま上げて販売することはできない。日本の製造業は、アメリカで販売できる価格になるように製造工程を改善し、原材料のコストダウンに努力をし、輸出価格を下げてきた。また、アメリカにおいても販売経費の削減などの努力をして販売価格の上昇を最小限に抑えて販売を継続した。
当時、この円高で日本の製造業の利益をすべて吹っ飛び、赤字になった製品が多い。
3 オイルショック
1973年 10月の第4次中東戦争を機にアラブ諸国が石油価格を4倍に引き上げた。これが第1次オイルショックである。さらに1979年に石油輸出国機構 OPEC諸国が石油価格を大幅に引き上げた。これが第2次オイルショックである。
2回にわたる石油ショックで原材料費が高騰し、世界経済全体に大きな混乱を起こした。特に全エネルギーの3/4を輸入石油に依存してきたわが国にとって石油価格の大幅な引き上げは大きな影響をもたらした。しかし、エネルギー価格の高騰は、基礎資材型産業を中心に省資源・省エネルギーへの取組を促進し、環境負荷の低減に寄与するとともに、加工組立型産業の技術革新も進展した。
日本の製造業は、エネルギー価格の高騰に対抗してそれまで国内の取引先と良い協力関係を構築しながら、部品構造の変更と改善そして、代替品の開発などで大変知恵を絞りコストダウンを図ってきた。
1973年の第1次石油危機(オイルショック)は、1960年代から実質経済成長率が平均10%を超えていたそれまで日本経済に大きなダメージを与えた。日本の高度成長率も終焉を迎え、中成長期へと転換した。平均10%を超えていた成長率はその後約4%にまで落ち、安定成長と言われる時代となり、エネルギー需要も横這いの状況となった。しかし、第2次石油ショックは、日本の経済成長率に一時的な影響を与えたが大きく成長率を下げることなく乗り切った。