イグレン 加藤 文男
日本の製造業の国際化や海外進出は、輸入した原材料を日本の製造技術を使って製品化した輸出を中心とした考え方であった。しかし、この考え方も国内における社会情勢の変化で方針を変更せざるを得なくなった。この過程を振り返ってみる。
1 市民運動による工場環境への規制や制限
プレス機械、旋盤などに機械加工設備は、使用すると振動や騒音は、避けられない。また、メッキ工場、プリント基板製造工場、塗装工場では、多くの水の使用と共にその排水廃液が発生し、その処理を考えなければならない。
社会情勢の変化は、旋盤加工や板金プレス加工工場の周辺において住民から振動や騒音に対する苦情という形で現れた。創業当初の工場敷地は、住宅地として開発されていないところを選んで工場を建設したため当時の土地価格はそれほど高くはなかった。従って、振動、騒音を問題にされる心配は全くなかった。その後、日本の経済の発展と共に個人の所得も増え、個人で自動車を所有する人も多くなると共に交通も便利になった。かつてあまり便利でなかった工場周辺にも次第に新築住宅も建設され気が付けば工場周辺は住宅で囲まれていた。
製造工場では、景気が上向き受注が増大すると設備を増強することなく残業及び深夜作業などで対応処理して切り抜けてきた。しかし、周辺の住宅の増加により、深夜操業だけでなく、遅くまでの残業に対しても苦情が来るようになった。これらの苦情に対して工場経営者は、「先に工場を建設したのは我々である」と主張して対抗してきたが市民活動の活発化と共に深夜作業だけでなく、残業さえも次第に難しくなった。神奈川県に対して調停を依頼したが「住民優先」で全く取り上げてもらえなかったと相模原のいくつかの経営者から聞かされた。
メッキ工程や塗装工程を持つ製造業では、廃液、排水などに対する基準が厳しくなり、処理設備への投資金額が増えていった。ここで異臭や悪臭に対する対策が働く従業員からも要求され始めたが良心的な経営者は、可能な限り対応してきた。しかし、工場敷地に余裕のない経営者は対応できないところも出てきた。地方への工場の移転も検討したが土地の値上がりと用地の確保が困難で実現が難しく、廃業した工場も少なくない。
市民運動は四日市の公害問題などでその活動が活発になり、振動、騒音、排水、廃液、排気などの異臭や悪臭すべては苦情の対象になり始めた。公害などの苦情件数は、1968年頃から増え始め1970年、1971年と急激に増大した。件数では、騒音振動が最も多く、悪臭がこれに次いでいる。
この背景には大気汚染のみならず、水質汚濁、自然破壊、新幹線などによる騒音・振動などの問題も日本各地で顕在化し、深刻度を増してきたことが挙げられる。また、1968年には、厚生省により、イタイイタイ病の原因は、三井金属鉱業株式会社の排水によるものとする見解が発表された。また、水俣病については、熊本県水俣湾周辺で発見されたものは、新日本窒素肥料(株)(チッソ(株)の前身)、新潟県阿賀野川流域で発見されたものについては、昭和電工(株)の工場排水であるとする政府統一見解が発表され、これらの健康被害が産業型の公害によるものであることが明らかになった。こうした結果、「産業発展のためとはいえ、公害は絶対に許せない」とする国民世論が急激な高まりをみせ、公害対策に関する施策が総合的に進められることがあった。
2 労働者の意識の変化と労働賃金の大幅な上昇
労働環境に対する要求だけでなく、工場で働く人たちの意識も変わり、労働力の確保も難しくなった。工場環境への苦情の多発や各種規制の強化、3Kを嫌う労働者の意識の変化と共に労働賃金の上昇も大きくなり、製造業の労働力の確保が次第に難しくなった。キツイ、汚い、危険な作業である3Kを伴う作業が毛嫌いされ始めたのである。
アルミダイキャスト工場の例をあげる。
現在の携帯電話の前身である自動車電話は、送信出力が大きく無線機本体から電波の漏洩を防止するためにアルミダイキャスト製のケースが使用されていた。大きさは、現在のノートパソコンほどでその厚さは2倍くらいあった。アルミ成型用の型を作り、溶解したアルミニュームを流して製造していた。成型する際、型の隙間からアルミニュームがはみ出してバリとなって出てくる。このバリ取り作業がたいへんであった。プラスチックと異なり大きなやすりをもって削り取っていた。このアルミダイキャスト工場におけるバリ取り作業には、力を要していたが住宅地での主婦のパートやアルバイトとして歓迎された。しかし、労力を要するために働いていた主婦も次第に軽い作業に移動し、労働力を確保することが難しくなった。川崎市内や横浜市内にあった工場は、首都圏周辺の山梨県や茨城県などの空き地に工場を移して、農作業の間のパートやアルバイトでしばらくの間は対応できたがそのうちに農村でもこれらの作業についても敬遠されると共に工賃の上昇もあって国内で作業する人たちを確保できなくなった。
1960年以降の日本の民間企業の賃金の上昇率の推移は下のようになっていた。
1960年から1964年までの賃金上昇率は、平均約11%程度になっていたが1965年から毎年10%を超える上昇となり、1969年までの平均上昇率は12.6%となった。1970年以降の上昇率はさらに高まり、1974年までの5年間の平均上昇率は20%を超えた。1974年の上昇率は特に大きく1年間に32.9%を記録した。その後は、上昇率も落ち着いてきたが1975年までの上昇率は、その後の経過を見ても異常とも思える数値であった。給与の推移は、人事院調査によるものである。
日本の製造業は、労働力を確保するために1960年以降これらの賃金上昇に対応せざるを得なかった。特に中小零細企業の経営者は労働力を確保するために大変な苦労をしたのである。